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車とともに変貌するファーストフードビジネス 2001/07/03

20世紀が生み出したファーストフードビジネス。 ファーストフードの起源を眺めていくと、ファーストフードと車社会の発展と強い関連あることがわかる。 21世紀、経済的な豊かさや化石エネルギーの大量消費にストップがかかった世界。 ファーストフードも大きな転換期を迎えている。

●ファーストフードの歴史

ファーストフードチェーンの創始者はカーネルサンダースだといわれる。 カーネル・ハーランド・サンダースは1890年、9月9日生まれだ。

カーネルが6才のとき、彼の父は他界している。 彼の母は働きに出なければならず 幼いハーランドは3人の弟と妹の世話をしなければならなかった。 この時代に、ハーランドは料理をほとんどマスターすることになった。 7才になると、かれはほとんどのこの地方の料理はマスターしていたという。

10才になると、ハーランドは月2ドルをかせぐようになり母を助けるようにまでなった。 しかし12才になると、母が再婚し、彼は家を出ることを余儀なくされた。 以来、数年間、カーネルは様々な仕事を転々とし、機関車の助手を行い、保険外交やオハイオ川蒸気フェリーで働き、 最終的にフェリーのサービスステーションで働くようになった。

40才のとき、カーネルはお腹が空いた旅行者にケンタッキーのコービンの街の サービスステーションで料理を出す。 サービスステーションの片隅においたテーブルでフォークを並べて料理を出したところ、これがヒットし、 次第に待ち時間に彼の料理を食べる人が増えていった。

だんだん多くの人がそこで食事をするようになり、カーネルの料理ビジネスは次第に花開いていった。 彼は、サービスステーションをでて、道を挟んで向かい側にあるホテルで、142席のレストランを開業した。

9年後、今日でも引き継がれるフライドチキンの基本的な料理方法と 秘密の11種類のハーブとスパイスをブレンドしたソースを開発した。 その新しいチキン料理は大ヒットし、レストランの名声は急速に高まることになる。 1935年にはケンタッキー州の料理に貢献したとして表彰も受けるに至っている。

しかし、そんな栄華も永久に続くわけではなかった。1950年代に入ると、本格的な車社会が到来する。 アメリカ横断ハイウエイができ、コービンの街にバイパスができる計画が持ち上がった。 バイパスができると、サービスステーションの人の流れが途絶え、このときを境に、レストランの 売り上げは急速にしぼんでいく。

彼のレストランビジネスは急速に終焉を迎える。社会の流れが変わると、 それまでの経済構造で拡大していた事業が傾くスピードは速い。 カーネルは急速に財産を失い、借入金がふくらんでいった。 カーネルサンダースがレストラン事業を精算し、債務の支払いを終わると、 彼の手元にはわずか105ドルしか残っていなかった。それは、社会保険から支給されたものだった。

しかし、サンダースには大ヒットしたチキンのレシピが残っていた。 1952年、ついにフライドチキンのフランチャイズビジネスを開始した。

サンダースは彼を倒産に追いやった車で合衆国の国道沿いのレストランというレストランを旅する。 彼のチキンの作り方をレストランオーナーとシェフたちにプレゼンテーションしていった。

レストランオーナーは簡単に作れておいしいフライドチキンに大きな関心を持った。 カーネルはそのフライドチキンが売れるたびにカーネルに5セントを支払うという契約を取り交わしていった。 契約は順調に伸び、世界で初のファーストフードチェーンビジネスのビジネスモデルが完成した。 1955年、ついにケンタッキーフライドチキンが創設された。 カーネル65才のときだった。ベンチャービジネスの創始者としては極めて遅咲きである。

●マクドナルド

ファーストフードの第一人者といえばマクドナルド。

レイモンド・アルバート・クロック(1902-1984)は彼は、ミルクセーキのミキサーの開発に一生を捧げた といっていい。 彼は自宅を独特のシェーカーを作成する開発のために解放し、5つのスピンドルを持ったマルチミキサーを開発し、 それまでにない優秀な機械ではあったが、一体誰が、 こんなにたくさんのミルクシェーカーを作れる機械を使うのだろう。 その機械をいかにして販売するかについて頭を悩ませていた。

彼は、ある日、カリフォルニアのマクドナルドと呼ばれるハンバーガーショップスタンドのニュースを聞きつけた。 聞きつけるや否や、彼はマルチミキサーを車に詰め込み、西に向かった。 1954年、クロック52才のときだった。

クロックがカリフォルニアのマクドナルドレストランについたとき、彼は驚愕せざるを得なかった。 マクドナルドでは猛烈なスピードで調理が行われ、多くの人が争ってハンバーグを購入していた。 その光景はかって見たことがない。

その日1日クロックはミルクセーキの販売をどういった形で実現するのかについて考えた。 ついに、彼はあるアイディアにたどりつく。 ディックとマクドナルドのために彼はいくつかのレストランを出店するために出資することにした。 そうすれば、各店舗ごとにマルチミキサーを置くことができる。 このアイディアをさっそくマクドナルドたちに申し出た。

「一体誰が俺たちにそんな投資をしてくれるっていうんだ?」
「私で構わないか?」

1955年レイ・クロックはイリノイ州にマクドナルドを開店した。 開店初日、当時のお金で366.12ドルもの収益を上げることができたという。 それは、奇しくもケンタッキーフライドチキンのフランチャイズが始まったのと同じ年だ。

「マックのお客様に洗車サービス」

マクドナルドに立ち寄ってハンバーガーを食べている間に、洗車をしてしまおう。 この仰天するアイディアをレイクロックが提案したときにはさすがに反対する物が多かった。 しかし、彼はあきらめず、率先してマクドナルド1号店にマクドナルドを食べに立ち寄った車の洗車を行った。 このアイディアは車の普及とともに大ヒット。今日の礎が築かれることになった。

マクドナルドは、車社会の拡大とともに発展し、ある種のアミューズメントスペースになっていく。 1963年にはロナルドのキャラクターがすでにテレビコマーシャルに流れるようになる。 そのころ、すでにあの赤と白の外壁に丸いMの文字が掲げられた建物は アメリカ合衆国のランドマークとなりつつあった。

●日本におけるファーストフード

それから15年後の1970年3月。 大阪万国博覧会で、ケンタッキーフライドチキンの実験店が出展された。 この時が、ファーストフードが日本に上陸した初めてのときであると言われている。

大阪万国博覧会会場では、1日なんと280万円の売り上げを記録している。

このときから1年遅れて、日本マクドナルドが名古屋に出店。日本における本格的 ファーストフード時代が到来する。

1981年には、日本マクドナルドは日本人の栄養を著しく改善した として、農林水産大臣賞を受賞している。

ファーストフードが地球に出現してわずか46年。日本では31年になる。

●最近のファーストチェーン

これほど急速に消費者に歓迎されたのにはわけがある。 まず第一に、お客様に徹底的に奉仕する精神がそこにあったからだ。 この精神は、一流のファーストフードビジネスでは脈々と引き継がれている。

マクドナルドは日本に上陸してわずか10年で日本全国に普及し、当時問題であった日本人の栄養状態も改善し、 日本の健康に多大な貢献をするに至った。

ところがそれからわずかの間に、 ダイエットをしなければならないほどファーストフードの消費が進みすぎることになる。 46年経過したアメリカでは、脂肪からの過剰エネルギー摂取量問題に対する対策が国を挙げての プロジェクトになり、日本でもその後を追う形になっている。

今日では、消費者はファーストフードに対してでさえ、ダイエット、健康という要素に関するニーズがどんどん 強くなってきている。

正確にはファーストフードチェーンではないが、コーヒーショップ「スターバックス」の延びは急激である。 そこでは全粒パンサンドイッチ、グリルドチキン、低脂肪乳、サラダなどが提供され、これが消費者に受けている。 スターバックスは基本的に車で訪れるところではなく、街の中にあり、カフェラテとサンドイッチを楽しみながら ペーパーバックの書籍を読むというのが定番の使い方になっている。

それに刺激される形で、ファーストフードチェーンの老舗でも 「旨い」「安い」「早い」だけのコンセプトとは異なる、いわゆる「スローフード」がつぎつぎと開発されている。 もちろん、フライドチキン、ハンバーガー、アイスクリーム、ソフトドリンクといった飽和脂肪酸と過剰な糖分 の定番が消えることはないが、消費者の動向は確実に変わりつつある。

企業は消費者のニーズに答える努力を惜しまない。成功している企業であればあるほどその傾向は強い。 とすれば、ファーストフードから栄養学的に望ましい食品が提供されるかどうかは 消費者の意識次第ということではないか。

おそらく、数年の間に、ファーストフードから供給される商品は急激に様変わりする。 車社会の発展とともに拡大してきたファーストフードが車社会からの脱却によって、 変貌を遂げるのは必然だからだ。 また国民の健康に対する基礎知識が浸透すればするほど、それを後押しするはずだ。 ファーストフードに対する消費ニーズは変貌し、味覚や嗜好性までも影響を受け、 その圧力によって提供される商品は変わっていくことになる。

私たちとしては、数年後のファーストフード店の店頭に、これまで「スローフード」と呼ばれていたメニューが どうどうと並び、食の選択肢が広がり、毎日の生活を楽しむことができるようになることを期待したい。



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